2011年12月30日金曜日

晩秋の鳳来寺山

2011年12月15日 鳳来寺山 (684.2m)

 今回は愛知県鳳来町の天竜奥三河国定公園「鳳来寺山」です。海抜684m、約2,000万年前から1500万年前の何回かの火山活動によって噴出した流紋岩漿、松脂岩、石英安山岩等からなり、ごつごつした岩山で、遠州の山々とは雰囲気が異なります。
鳳来寺と聞いて「仏法僧(ブッポウソウ)」を連想された方はそこそこのお歳とお見うけ致します。昭和10年にNHK名古屋(JOCK)から、新開発のパラボラ型集音機で録音された仏法僧の鳴き声が全国に放送され、同時に学術研究が進みこれまで謎に包まれていた神秘的な鳴き声の「仏法僧」は「コノハズク」の声であること明らかになりました。当時の名中継と言われたようです。という訳でこの鳳来山付近の「ゆるキャラ」はフクロウ・コノハズクです。

写真のマスコットは自然休暇村管理所兼食堂兼お土産屋さんの「かさすぎ」で買いました。
今回はこの駐車場に車を止めさせてもらいました。

 因みに、この鳳来町のすぐ南は「長篠城跡」があり、この一帯は「長篠の戦」の戦場跡地です。資料館等もありますので一度寄られると良いでしょう。
 さて、鳳来寺についてですが、鳳来寺本殿前に建てられた由来によると、この寺はおよそ1,300年前に開かれ、大宝三年(703)に文武天皇から鳳来寺の名を賜り建立され、以来この地方に広い信仰圏を持って栄え、源頼朝も厚く信仰し七堂伽藍を寄贈し隆盛期を迎えたとあります。特に子授けの薬師如来として評判が高く、松平広忠の夫人伝通院於大の方が鳳来寺薬師如来に祈願し家康が生まれたと伝えられています。
本堂から少し登ったところにある薬師堂

その因縁により三代将軍家光公が発願され慶安四年(1651)四代将軍家綱公の時に鳳来寺の東側に数百mのところに東照宮が建てられました。昭和28(1953)には本殿・拝殿・弊殿・中門・透塀・石柵・石灯籠等が国の重要文化財に指定され、日本三大東照宮の一つとなっています。日光の東照宮、久能山東照宮はよく知られていると思いますが、この鳳来山のと日本に三か所の東照宮があることを知っている方はあまり多くないのではないでしょうか。徳川家康と聞くと江戸、駿府がイメージされますが、元々の出身は奥三河です。
鳳来寺山東照宮の本殿です

本殿まで上れない人のために階段下に遙拝所がありその賽銭箱には葵の紋が

以前の秋葉山のところでも触れましたが、昔の家はかや葺きであったため、火事になるとまたたくまに燃え広がりました。だから火の神様がまつられている秋葉山への信仰が大変盛んでした。どこの村にも秋葉講(あきばこう)という仲間の組織があり、毎年きまった時期に、仲間の代表の者が秋葉山に参詣してお札(おふだ)を受けてきました。そして、仲間が集まっておまつりをし、それぞれお札をいただいて、家の台所やいろり端に貼って、火事にならないようにお祈りをしました。旅を楽しみながら、秋葉山へお参りに行く人達も数多くありました。秋葉山へ参詣に行く人達が通った道を秋葉道(あきはみち)と呼んでいます。鳳来寺から引地(ひきじ)へ下り、宇連川を渡し舟越え、大野、細川、巣山を経て遠州に入り、熊(くんま)、石打、戸倉を通って秋葉山まで九里(34km)の道のりです。

今は裏通りとなってしまった大野の秋葉道とか巣山の秋葉道の道筋には、秋葉山参詣者で賑わった宿場町の面影が残っています。この道も、いずれ歩いてみたいと思っています。

 久しぶりでここ鳳来寺山に来たのですが、いたるところで倒木・土砂崩れ等で登山道が寸断され、迂回路の処置がなされていました。秋葉山のところでも触れましたが、今年(2011)の台風15号の影響だと思います。この台風は、雨だけでなくものすごい風だったので、恐らく何百年も岩を割って根を張っていたであろう杉の大木が根こそぎ倒されています。たかだか50年程前であれば、倒木・枯れ枝・杉葉等は薪・燃料として地域の人達で処理されていたのでしょうが、電気・石油・ガスに頼る昨今の生活では倒木の処理がなされません。これでいいのだろうかと考えさせられます。山はどんどん荒れてしまっています。

 それはともかく、私がこの鳳来寺山が好きなのは、鷹打ち場と呼ばれる谷間に突き出た岩場があり、そこからの眺めは素晴らしいものです。遮るものがないので眺望を独り占めした感があります。この鷹打ち場から南に遠く富幕山のアンテナ二基が確認できます。


高所恐怖症の方はここに立つのはおやめ下さい。

 国土地理院の地図では鳳来寺山(684.2m)の三角点の表示があり、さらにその先にもう一つの鳳来寺山(695m)の記載があります。この写真は鳳来寺山(684.2m)の方ですが、三角点は確認できませんでした。


 さらに棚山方面に進みますと「、瑠璃山」と書かれた標識がありちょっとした岩場があります。恐らくこれが鳳来寺山(695m)ではないかと思われます。これを登るのはちょっと躊躇します。


この瑠璃山下からは南アルプス方面を見渡すことが出来ますが、個々の山々の名前はわかりません。

さて、ログです。
  8:12 自然休暇村管理所「かさすぎ」駐車場発
8:27 仁王門前通過
8:30 馬の背岩展望台分岐
8:56 馬の背岩展望台
9:15 参道階段合流
9:25 鳳来寺休息所着
10:08 奥の院
10:22 鳳来寺山山頂
10:27 瑠璃山下から南アルプスを望む
11:23 天狗岩通過
11:40 巫女石、高座石前
11:46 鷹打場分岐
11:50 鷹打ち場展望台
12:15 東照宮
12:25 鳳来寺
13:05 駐車場着

4時間50分 約15,000歩 階段1,425
  今回は仁王門の先から馬の背岩の方に向かったので、参道の石段を全部登ったわけではありませんが、途中の案内版にはこの石段は全部で1,425段あると言われています。下りは全部降りました。ずいぶん昔につくられた石段ですので、あちこち随分痛んでいてなかなか歩きにくいのです。特に下りはご注意を。

この鳳来寺の山道に至る門前町門屋地区の参道を歩くとやたら句碑とか投稿箱が目立ちます。古くからの名所・名刹ですので多くの文人俳人が訪れていたようです。途中にあった句碑、解説碑などからいくつか紹介してみましょう。

「松尾芭蕉」
 江戸時代の有名な俳人松尾芭蕉が鳳来寺を訪れたのは、今から300年あまり前の元禄4年の10月下旬のことでした。前日、新城に住む弟子太田白雪の家に泊まった芭蕉は、弟子たちを連れて鳳来寺に参詣に来ました。急な坂道の途中で足を休め、

              木枯らしに岩吹きとがる杉間かな

という句をよみました。現在、山道の石段を100段ほど上がった左側に、この木枯らしの句碑が立てられています。たいへん寒い日だったので冷えたためか、芭蕉は持病がひどくなり、頂上まで登らずに引き返し、表参道にあった「家根屋」という宿屋に泊りました。この宿で芭蕉は、

              夜着一つ折り出(いだ)して旅寝かな

という句をよみました。この夜着の句碑の立てられているところが「家根屋」のあった跡です。当時47歳の芭蕉は、既に俳聖とあがめられ、芭蕉翁と呼ばれていました。



「若山牧水」
 若山牧水は、明治から大正にかけてのころ有名な歌人です。若いころから色々な傾向の歌をつくりましたが、特に晩年は自然を愛し、素直な心情を歌にしながら、酒と旅を楽しみつつ生涯を終えました。牧水は大正137月、鳳来寺を訪れ医王院に5日滞在しました。そして、大正156月、再び鳳来寺を訪ね、小松家に1泊しました。牧水が鳳来寺を訪れた時に残した

仏法僧仏法僧とと鳴く鳥の

       声をまねつつ飲める酒かも

という歌を刻んだ碑が、松高院の上の左側の岩の壁にはめこんであります。
しんしんと更けていく深山の気配を肌に感じながら、静かに酒を飲んでいると、「ブッ・ポー・ソー」と、澄んだ鳴き声が、深い木立の間の空気に共鳴して響いてくる。思わず、自分も「ブッ・ポー・ソー」と、一緒につぶやきながら、杯を重ねている。と、鳳来寺の里の静かな夜を詠んだものでしょう。


 さて、いつものようにログです。GPSデータによるログの軌跡とスントの高度計ログ、万歩計の時間ごとの歩数記録です。