今日はいつものメンバーのM山氏が、金指街道沿いにある四川料理店に行ってみたい、との提案があり、帰路にその店に立ち寄るべく竜ヶ石山から奥山に至る尾根歩きを計画しました。
ここの尾根道はすでに報告したように(2011年3月31日(木)”滝清水から奥山半僧坊へ”、2011年7月29日(金)”奥山半僧坊までの尾根歩き” )、あまり人が立ち入らないところなので今でも踏み跡が薄く、何度か目印の赤いテープ等を補給してきたところです。さらにこの夏の台風15号の影響で倒木が多く、そう大した事は出来ませんが鉈、鋸(むろん銃刀法に触れない小型の)を持って少し手を入れてきました。
いつものように自宅から徒歩で金指街道のバス停で他のメンバーと合流すべく歩き始めます。いつもは1:30程の道のりですが、今回は途中で「すき屋」の鮭・けんちん汁朝定食をトライしようと20分ほど余裕を見てスタート。朝食をしっかり食べたせいか足も軽くいつもの「三方原霊園前」をやり過ごし、「根洗バス停前」でもまだ8:30だったので、2つ先の「祝田(ホウダ)バス停」まで行くことにしました。ところがこのバス停の間隔が長く思いがけず途中で時間が足りなくなり、何とウォーキングからランニングに切り替える羽目となってしまいました。
因みに、この「三方原霊園」は徳川家康が武田信玄軍の南進を止めることが出来ずに大敗したあの「三方原の戦い」の古戦場です。但し、明確にここであるかどうかはまだ定説はないようです。
碑文内容と徳川恒孝の揮毫に関する説明は後述する。
竜ヶ岩洞前バス停から、竜ヶ石山山頂まではほぼいつもの通りに約1時間の登りで到着。帰路の奥山に向かう尾根歩きは台風の影響もあって倒木などが多く道の確保などの作業も進めながらの行程でしたので約1:30弱かかってしまいました。いつもは「奥山バス停」に向かうのですが、今回はそのまま浜松方面にバスで戻るのでで「奥山小学校前バス停」に下山しました。
GPSデータの山歩き部分の軌跡を紹介します。
今回は、倒木他の登山路確保の作業があったので、写真を撮る余裕がありませんでしたので、登山道のGPSログだけでなく、全体像が分かるGPSログも作ってみました。浜北から三方原台地を横切り金指の手前までの徒歩区間と金指から細江竜ヶ岩洞まで伸ばす区間が俯瞰できます。ご参考まで。15~6km、約28,000歩、6時間半のなかなか有意義な一日でした。(午餐の時間を除く)
全行程のGPSデータと高度データの軌跡です。
当該の四川料理店「成都」は金指街道沿いの百里園バス停の南にあります。見ればすぐわかります。刀削麺が得意らしいですが、まだ試したことはありません、四川ですからピリ辛で味はまあまあと思います。
8:55 祝田バス停で合流
9:16 竜ヶ岩洞入口下車
10:15 竜ヶ石山山頂 ほぼいつもと同様
10:45 下山開始
12:10 奥山小学校前バス停
12:24 バス乗車
12:55 四川料理「成都」到着
14:15 同出発 徒歩にて東進
15:10 自宅着
<石碑>
「三方原古戦場」
徳川恒孝 (とくがわ つねなり)
<碑銘>
元亀3年(1573年)12月22日徳川家康は武田信玄の上洛を阻止せんと、武田軍およそ2万7千の兵力に対し徳川軍は、およそ1万1千の兵力を持って戦いを挑み、戦闘約2時間と言われるも結果は大敗に終わった。 これが三方原合戦である。戦いが展開されたのは、この三方原台地であるがそのところは定かではない。 われわれは、この三方原の一角に、この碑を建て、その歴史の場を永く後世に伝えようとするものである。
昭和59年7月吉日
三方原歴史文化保存会有志
補足1) 徳川軍1万1千のうち、3千が織田からの援軍
補足2) 武田主力部隊は、二俣城を落とした後、浜松城には向かわず三方原台地を西に進み、浜名湖の庄内半島付近(現在の舘山寺付近か)にあったと言われる堀江城を目指したらしい。その時横切ったのが「祝田の坂と」言われるが定かではない。
補足3) 徳川恒孝 (とくがわ つねなり) 徳川宗家18代当主。 元日本郵船副社長、現徳川記念財団理事長。 会津松平、容保(かたもり)の子孫1940年生まれ。宗家17代外孫ながら直系男子の夭折のため、養子となる。
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