2011年12月30日金曜日

晩秋の鳳来寺山

2011年12月15日 鳳来寺山 (684.2m)

 今回は愛知県鳳来町の天竜奥三河国定公園「鳳来寺山」です。海抜684m、約2,000万年前から1500万年前の何回かの火山活動によって噴出した流紋岩漿、松脂岩、石英安山岩等からなり、ごつごつした岩山で、遠州の山々とは雰囲気が異なります。
鳳来寺と聞いて「仏法僧(ブッポウソウ)」を連想された方はそこそこのお歳とお見うけ致します。昭和10年にNHK名古屋(JOCK)から、新開発のパラボラ型集音機で録音された仏法僧の鳴き声が全国に放送され、同時に学術研究が進みこれまで謎に包まれていた神秘的な鳴き声の「仏法僧」は「コノハズク」の声であること明らかになりました。当時の名中継と言われたようです。という訳でこの鳳来山付近の「ゆるキャラ」はフクロウ・コノハズクです。

写真のマスコットは自然休暇村管理所兼食堂兼お土産屋さんの「かさすぎ」で買いました。
今回はこの駐車場に車を止めさせてもらいました。

 因みに、この鳳来町のすぐ南は「長篠城跡」があり、この一帯は「長篠の戦」の戦場跡地です。資料館等もありますので一度寄られると良いでしょう。
 さて、鳳来寺についてですが、鳳来寺本殿前に建てられた由来によると、この寺はおよそ1,300年前に開かれ、大宝三年(703)に文武天皇から鳳来寺の名を賜り建立され、以来この地方に広い信仰圏を持って栄え、源頼朝も厚く信仰し七堂伽藍を寄贈し隆盛期を迎えたとあります。特に子授けの薬師如来として評判が高く、松平広忠の夫人伝通院於大の方が鳳来寺薬師如来に祈願し家康が生まれたと伝えられています。
本堂から少し登ったところにある薬師堂

その因縁により三代将軍家光公が発願され慶安四年(1651)四代将軍家綱公の時に鳳来寺の東側に数百mのところに東照宮が建てられました。昭和28(1953)には本殿・拝殿・弊殿・中門・透塀・石柵・石灯籠等が国の重要文化財に指定され、日本三大東照宮の一つとなっています。日光の東照宮、久能山東照宮はよく知られていると思いますが、この鳳来山のと日本に三か所の東照宮があることを知っている方はあまり多くないのではないでしょうか。徳川家康と聞くと江戸、駿府がイメージされますが、元々の出身は奥三河です。
鳳来寺山東照宮の本殿です

本殿まで上れない人のために階段下に遙拝所がありその賽銭箱には葵の紋が

以前の秋葉山のところでも触れましたが、昔の家はかや葺きであったため、火事になるとまたたくまに燃え広がりました。だから火の神様がまつられている秋葉山への信仰が大変盛んでした。どこの村にも秋葉講(あきばこう)という仲間の組織があり、毎年きまった時期に、仲間の代表の者が秋葉山に参詣してお札(おふだ)を受けてきました。そして、仲間が集まっておまつりをし、それぞれお札をいただいて、家の台所やいろり端に貼って、火事にならないようにお祈りをしました。旅を楽しみながら、秋葉山へお参りに行く人達も数多くありました。秋葉山へ参詣に行く人達が通った道を秋葉道(あきはみち)と呼んでいます。鳳来寺から引地(ひきじ)へ下り、宇連川を渡し舟越え、大野、細川、巣山を経て遠州に入り、熊(くんま)、石打、戸倉を通って秋葉山まで九里(34km)の道のりです。

今は裏通りとなってしまった大野の秋葉道とか巣山の秋葉道の道筋には、秋葉山参詣者で賑わった宿場町の面影が残っています。この道も、いずれ歩いてみたいと思っています。

 久しぶりでここ鳳来寺山に来たのですが、いたるところで倒木・土砂崩れ等で登山道が寸断され、迂回路の処置がなされていました。秋葉山のところでも触れましたが、今年(2011)の台風15号の影響だと思います。この台風は、雨だけでなくものすごい風だったので、恐らく何百年も岩を割って根を張っていたであろう杉の大木が根こそぎ倒されています。たかだか50年程前であれば、倒木・枯れ枝・杉葉等は薪・燃料として地域の人達で処理されていたのでしょうが、電気・石油・ガスに頼る昨今の生活では倒木の処理がなされません。これでいいのだろうかと考えさせられます。山はどんどん荒れてしまっています。

 それはともかく、私がこの鳳来寺山が好きなのは、鷹打ち場と呼ばれる谷間に突き出た岩場があり、そこからの眺めは素晴らしいものです。遮るものがないので眺望を独り占めした感があります。この鷹打ち場から南に遠く富幕山のアンテナ二基が確認できます。


高所恐怖症の方はここに立つのはおやめ下さい。

 国土地理院の地図では鳳来寺山(684.2m)の三角点の表示があり、さらにその先にもう一つの鳳来寺山(695m)の記載があります。この写真は鳳来寺山(684.2m)の方ですが、三角点は確認できませんでした。


 さらに棚山方面に進みますと「、瑠璃山」と書かれた標識がありちょっとした岩場があります。恐らくこれが鳳来寺山(695m)ではないかと思われます。これを登るのはちょっと躊躇します。


この瑠璃山下からは南アルプス方面を見渡すことが出来ますが、個々の山々の名前はわかりません。

さて、ログです。
  8:12 自然休暇村管理所「かさすぎ」駐車場発
8:27 仁王門前通過
8:30 馬の背岩展望台分岐
8:56 馬の背岩展望台
9:15 参道階段合流
9:25 鳳来寺休息所着
10:08 奥の院
10:22 鳳来寺山山頂
10:27 瑠璃山下から南アルプスを望む
11:23 天狗岩通過
11:40 巫女石、高座石前
11:46 鷹打場分岐
11:50 鷹打ち場展望台
12:15 東照宮
12:25 鳳来寺
13:05 駐車場着

4時間50分 約15,000歩 階段1,425
  今回は仁王門の先から馬の背岩の方に向かったので、参道の石段を全部登ったわけではありませんが、途中の案内版にはこの石段は全部で1,425段あると言われています。下りは全部降りました。ずいぶん昔につくられた石段ですので、あちこち随分痛んでいてなかなか歩きにくいのです。特に下りはご注意を。

この鳳来寺の山道に至る門前町門屋地区の参道を歩くとやたら句碑とか投稿箱が目立ちます。古くからの名所・名刹ですので多くの文人俳人が訪れていたようです。途中にあった句碑、解説碑などからいくつか紹介してみましょう。

「松尾芭蕉」
 江戸時代の有名な俳人松尾芭蕉が鳳来寺を訪れたのは、今から300年あまり前の元禄4年の10月下旬のことでした。前日、新城に住む弟子太田白雪の家に泊まった芭蕉は、弟子たちを連れて鳳来寺に参詣に来ました。急な坂道の途中で足を休め、

              木枯らしに岩吹きとがる杉間かな

という句をよみました。現在、山道の石段を100段ほど上がった左側に、この木枯らしの句碑が立てられています。たいへん寒い日だったので冷えたためか、芭蕉は持病がひどくなり、頂上まで登らずに引き返し、表参道にあった「家根屋」という宿屋に泊りました。この宿で芭蕉は、

              夜着一つ折り出(いだ)して旅寝かな

という句をよみました。この夜着の句碑の立てられているところが「家根屋」のあった跡です。当時47歳の芭蕉は、既に俳聖とあがめられ、芭蕉翁と呼ばれていました。



「若山牧水」
 若山牧水は、明治から大正にかけてのころ有名な歌人です。若いころから色々な傾向の歌をつくりましたが、特に晩年は自然を愛し、素直な心情を歌にしながら、酒と旅を楽しみつつ生涯を終えました。牧水は大正137月、鳳来寺を訪れ医王院に5日滞在しました。そして、大正156月、再び鳳来寺を訪ね、小松家に1泊しました。牧水が鳳来寺を訪れた時に残した

仏法僧仏法僧とと鳴く鳥の

       声をまねつつ飲める酒かも

という歌を刻んだ碑が、松高院の上の左側の岩の壁にはめこんであります。
しんしんと更けていく深山の気配を肌に感じながら、静かに酒を飲んでいると、「ブッ・ポー・ソー」と、澄んだ鳴き声が、深い木立の間の空気に共鳴して響いてくる。思わず、自分も「ブッ・ポー・ソー」と、一緒につぶやきながら、杯を重ねている。と、鳳来寺の里の静かな夜を詠んだものでしょう。


 さて、いつものようにログです。GPSデータによるログの軌跡とスントの高度計ログ、万歩計の時間ごとの歩数記録です。









2011年11月28日月曜日

紅葉の愛知県民の森

2011年11月25日(金) 紅葉の愛知県民の森

今年の目標の一つに掲げていた愛知県民の森「外周尾根」の踏破はすでに既報のように、2011/04/22愛知県民の森外周尾根踏破2011/06/14愛知県民の森外周尾根の逆コースですでに達成してしまったので、愛知県民の森にはこのところ足が遠退いておりました。

この外周尾根コース踏破の目標の先には、さらに宇連山(929m)登頂を加えることですが、外周だけで7時間30分に加え、北尾根分岐から宇連山々頂までの往復2時間を加えると、合計9時間30分が必要となります。日照時間の長い夏でも山の日暮は思いがけず速いので遅くても午後4時前には下山したいので、廬山開始時間は必然的には6時でギリギリです。そうなると、この計画を日照時間の短い秋口に行うのは無謀ですし、この時期冬眠前の熊とかイノシシのことも考慮せねばありません。熊はまだありませんが、イノシシとバッタリ目があった事はあります。怖かった!

さて、今回の計画の骨子ですが、
1) 南尾根~滝尾根分岐を経て北尾根分岐に出る。
2) ここで3) の条件を加味し、宇連山山頂を目指す。
3) 尾根周回にはこだわらず、下山は最短の滝沢コースか滝尾根コースを経て下山林道に降りる。

これら条件を踏まえた上で、ともかく北尾根分岐(744mポイント)まで入ってみようと計画してみました。


宿泊施設を備えたモリトピアの目の前のキャンプ場の後ろにそびえる南斜面を一気に上ると「不動の滝上展望台」からの眺めが楽しめます。


南尾根展望台からの展望をパノラマ写真にしてみました。明神山の展望塔、富幕山の中継アンテナ2基がよくわかります。冬場のよく晴れた乾燥した天気だと遠くに富士山を見ることが出来るそうですがーー。

結局今回は、北尾根分岐地点で山頂を目指すのは断念しました。その判断のポイントは1) 山頂往復で2時間、2) そこから下山で最短の滝尾根コースをとっても2時間、3) モリトピア着が3時ですので、この時期としてはやはりギリギリです。

その代りに北尾根を下り、さらにこれまで行ったことのない「蔦の滝」、「亀石の滝」を目指すことにしました。これが意外にきつかった!北尾根分岐から、急傾斜の北尾根を経て、いつものガクノ窪から林道を目指すのですが、今回はその途中で蔦の滝、亀石の滝分岐から滝を目指しました。ところがこの滝川に出るには尾根を一つ越さなければなりません。ここが結構きつかった!高度計のログを見ると100mはないけど結構登ってるのがわかります。秋口の渇水期ですのであまり水量は期待していませんでしたが、「蔦の滝」、の方はそれなりに滝らしい水量はありました。この「蔦の滝」、「亀石の滝」の他に「下石の滝」、「不動の滝」があり水に恵まれているところです。また、秋は紅葉、初夏の新緑となかなか景色も楽しめる場所です。

「蔦の滝」です。この近くには蔦がぶら下がってます。



こちら「亀石の滝」の方が落差が32mとあるのですが、少々水量が少なく迫力が今一つです。


今回少々遅かったかも知れませんが紅葉をご紹介しておきましょう。明治100年記念広場の紅葉です。いい色が出てるのですが、わかりますかねぇ。

また、この愛知県民の森の中を流れる「大津谷川」はいつ来ても水が澄んでいて、それなりの水量があります。冬場の降雪もないし、標高もさほどでないのでよほど大きな地下水脈があるのでしょうか。川をよく見ると石灰岩系の白い川床です。これもフィルターの役目をしているのかもしれません。夏季にはモリトピアの前の川にある「砂防ダム」の間で子供たちが水泳をしています。私も入ってみたいのですが、次の夏まで待ちましょう。

ログです。GPSデータによるログの軌跡とスントの高度計ログ、万歩計の時間ごとの歩数記録です。5時間26分、11.12kmの行程でした。




 6:50 自宅発
 7:50 モリトピア駐車場着
 7:55 同出発
 8:15 不動の滝上展望台
 8:45 南尾根展望台
 9:40 国体コース分岐
10:28 滝沢分岐
10:34 滝尾根分岐
10:50 北尾根分岐着昼食(744mポイント)
11:05 同発
11:50 ガクノ窪分岐
11:57 蔦の滝分岐
12:25 蔦の滝
12:35 亀石の滝
12:55 明治百年記念公園
13:30 モリトピア駐車場着

またまた竜ヶ石山尾根歩き

11月13日(日) またまた竜ヶ石山尾根歩き


今日はいつものメンバーのM山氏が、金指街道沿いにある四川料理店に行ってみたい、との提案があり、帰路にその店に立ち寄るべく竜ヶ石山から奥山に至る尾根歩きを計画しました。
ここの尾根道はすでに報告したように(2011年3月31日(木)”滝清水から奥山半僧坊へ”、2011年7月29日(金)”奥山半僧坊までの尾根歩き” )、あまり人が立ち入らないところなので今でも踏み跡が薄く、何度か目印の赤いテープ等を補給してきたところです。さらにこの夏の台風15号の影響で倒木が多く、そう大した事は出来ませんが鉈、鋸(むろん銃刀法に触れない小型の)を持って少し手を入れてきました。

いつものように自宅から徒歩で金指街道のバス停で他のメンバーと合流すべく歩き始めます。いつもは1:30程の道のりですが、今回は途中で「すき屋」の鮭・けんちん汁朝定食をトライしようと20分ほど余裕を見てスタート。朝食をしっかり食べたせいか足も軽くいつもの「三方原霊園前」をやり過ごし、「根洗バス停前」でもまだ8:30だったので、2つ先の「祝田(ホウダ)バス停」まで行くことにしました。ところがこのバス停の間隔が長く思いがけず途中で時間が足りなくなり、何とウォーキングからランニングに切り替える羽目となってしまいました。

因みに、この「三方原霊園」は徳川家康が武田信玄軍の南進を止めることが出来ずに大敗したあの「三方原の戦い」の古戦場です。但し、明確にここであるかどうかはまだ定説はないようです。


碑文内容と徳川恒孝の揮毫に関する説明は後述する。

竜ヶ岩洞前バス停から、竜ヶ石山山頂まではほぼいつもの通りに約1時間の登りで到着。帰路の奥山に向かう尾根歩きは台風の影響もあって倒木などが多く道の確保などの作業も進めながらの行程でしたので約1:30弱かかってしまいました。いつもは「奥山バス停」に向かうのですが、今回はそのまま浜松方面にバスで戻るのでで「奥山小学校前バス停」に下山しました。
GPSデータの山歩き部分の軌跡を紹介します。


今回は、倒木他の登山路確保の作業があったので、写真を撮る余裕がありませんでしたので、登山道のGPSログだけでなく、全体像が分かるGPSログも作ってみました。浜北から三方原台地を横切り金指の手前までの徒歩区間と金指から細江竜ヶ岩洞まで伸ばす区間が俯瞰できます。ご参考まで。15~6km、約28,000歩、6時間半のなかなか有意義な一日でした。(午餐の時間を除く)

全行程のGPSデータと高度データの軌跡です。




当該の四川料理店「成都」は金指街道沿いの百里園バス停の南にあります。見ればすぐわかります。刀削麺が得意らしいですが、まだ試したことはありません、四川ですからピリ辛で味はまあまあと思います。

 7:10 自宅徒歩出発
 8:55 祝田バス停で合流
 9:16 竜ヶ岩洞入口下車
10:15 竜ヶ石山山頂  ほぼいつもと同様
10:45 下山開始
12:10 奥山小学校前バス停
12:24 バス乗車
12:55 四川料理「成都」到着
14:15 同出発 徒歩にて東進
15:10 自宅着


<石碑>

「三方原古戦場」
   徳川恒孝 (とくがわ つねなり) 

<碑銘>
 元亀3年(1573年)12月22日徳川家康は武田信玄の上洛を阻止せんと、武田軍およそ2万7千の兵力に対し徳川軍は、およそ1万1千の兵力を持って戦いを挑み、戦闘約2時間と言われるも結果は大敗に終わった。 これが三方原合戦である。戦いが展開されたのは、この三方原台地であるがそのところは定かではない。 われわれは、この三方原の一角に、この碑を建て、その歴史の場を永く後世に伝えようとするものである。

   昭和59年7月吉日
     三方原歴史文化保存会有志


補足1) 徳川軍1万1千のうち、3千が織田からの援軍

補足2) 武田主力部隊は、二俣城を落とした後、浜松城には向かわず三方原台地を西に進み、浜名湖の庄内半島付近(現在の舘山寺付近か)にあったと言われる堀江城を目指したらしい。その時横切ったのが「祝田の坂と」言われるが定かではない。

補足3) 徳川恒孝 (とくがわ つねなり) 徳川宗家18代当主。 元日本郵船副社長、現徳川記念財団理事長。 会津松平、容保(かたもり)の子孫1940年生まれ。宗家17代外孫ながら直系男子の夭折のため、養子となる。


2011年11月7日月曜日

台風の後の秋葉山

秋葉山(866m) 2011年10月21日
  このところ私の周辺で様々の出来事に追われ、山歩きどころではない日々が続いておりましたが、ようやく先の見通しも立ち久々にトレーニングも兼ねてF氏、H氏と共に秋葉山に行ってきました。今年平成23年はここ遠州地方でも台風15号の洗礼を受けました。雨風がそれはそれは強烈なもので、特に風はこれまで経験したことのないほどの強風で、我が家の雨樋が吹き飛んだほどです。喉元過ぎればで、この台風の影響をすっかり忘れてましたが、秋葉山下社から「くりはし」を渡り、参道のアプローチに立ってみたら、あちこちすごいことになっています。参道が崩れ、大木が倒れて道をふさいでいたりとあちこち被災しています。各方面の方々のご努力で少しずつ修復が施されていますが、まだまだかかりそうです。



  この秋葉山は火防の神様として古くから信仰を集めており、消防関係の諸団体の名前が寄進者や参拝団体の名前に多く見られます。登山道にも禁煙、火防の表示が沢山あります。
  因みに「秋葉原」の由来はここなんです。1869年(明治2年)12月の大火を受け、明治天皇の勅命で現在のJR秋葉原駅構内の地に勧請された「鎮火社」を、江戸時代に火防(ひぶせ)の神として広く信仰を集めていた神仏混淆の秋葉大権現(あきはだいごんげん)が勧請されたものと誤解した人々が「秋葉様」「秋葉さん」と呼び、火災時には緩衝地帯となるよう空き地とされていた社域を「秋葉の原」「秋葉っ原」と呼んだことに由来だそうです。その鎮火社は1870年に秋葉社となり、1888年(明治21年)日本鉄道が建設していた鉄道線(現在の東北本線)が上野から秋葉原まで延長されるのに伴って台東区松が谷3丁目に移転され、秋葉神社となったといわれてます。いずれにしても、この秋葉山が総本山(神社本庁傘下だけで約800社らしい)ですのでAKB48はメンバー全員でここ秋葉山に参詣しなくてはいけないのでは?じゃんけん大会より秋葉山登山で順位を決めてはいかがでしょう?

  また、この秋葉山は火難除けの神を祭る神社の総本山ですので、火災に悩まされていた江戸市中の人々の間でその信仰は急速に広まっていました。野次北さん北さんで有名な、東海道膝栗毛の中でも掛川の宿から東海道をそれて秋葉詣でに行くとの記述があると言われているようです。横道にそれるといっても掛川から秋葉山まで約50Km程ありますし、秋葉山から気賀、三ケ日宿辺りの姫街道に戻ったのでしょうが、御油宿か二川宿で東海道に戻ったのかは定かではありませんが、少なくとも2~3日は余分にかかるはずです。ずいぶんゆったりとした旅だったのですね。


  これは歌川広重の東海道五十三次のうち「掛川秋葉山遠望」ですが、掛川宿の手前の塩井川に掛かる橋の上を、秋葉詣の旅人と修験者がすれ違う場面が描かれています。火橋の手前に描かれている二本の常夜灯は、秋葉山の入り口を示しています。右側奥の山が秋葉山だそうです。

  旧姫街道の石畳などの山を歩くたびにいつも思うのですが、昔の人はホントに草鞋ばきで山道をあるいたんですね。当時の人の足の裏はどんなんだったのでしょうね。話はまたまた横道にそれますが、松本清張原作の短編「天城越え」のNHKドラマを見た時のことを思い出しました。大谷直子演ずる足抜け娼婦が、鶴見信吾の家出の少年に「兄さん、はだしで歩くと気持ちがいいよ」と声をかける場面があります。当然舗装などされているはずもない天城の山道を若い女と子供が素足で歩く、それも相当の距離だと思うのですがーーー。足の裏が血まみれになるのではないかと心配したことを思い出しました。いつかわらじで歩いてみなければいけません、実践主義者の私としては。地下足袋はコメリであるのですが、わらじがねぇ。

  横道にそれ過ぎましたが、今回のログです。今回はなまった体をほぐすトレーニングのつもりでしたのでゆっくりとしたペースで歩いてきました。

  9:09 下社(やしろ)先の駐車場出発
10:50 送電線直下休憩
11:25 三尺坊
11:50 秋葉山本社
11:55 茶店
12:30 下山開始
12:50 三尺坊通過
13:10 送電線直下休憩
14:30 下社付近駐車場着

5時間22分、約2万歩、約9.35km

いつものごとくそれぞれGPSデータ、万歩計、高度計のデータです。




  今回は少々曇りがちであまり眺望は良くありませんでしたが、前掲GPS地図データでも送電線とクロスするところに木製のテーブルとベンチがありゆったりと休憩しました。写真はそこから南側、天竜川の流れに沿って南側を見たところです。


  この先、東側に眺望が開けているところでは冬の晴れた日には富士山も望むことが出来ます。この写真は当日のものではありませんが、2006年の正月のものです。


  秋葉山から手前の山道を下ると「秋葉三尺坊大権現」があります。その昔秋葉山山岳信仰に、信州出身の三尺坊という修験者が起こしたと言われています。この三尺坊を祀る秋葉社と、観世音菩薩を本尊とする秋葉寺とが同じ境内にある神仏混淆ですが、この三尺坊の場所には現在「秋葉寺」が置かれています。なかなか分かりにくいのですが、これは三尺坊の山門です。


こちらは秋葉神社の旧神門です。



  これが新しい秋葉神社本社で、古い方は新しい(と言っても結構古いのですが)神門です。こちら側は道路が整備されていて車で参拝できます。ハイヒールやサンダル履きの人も多いので、旧参道の山道を汗みどろになってようやくたどり着いた我々との対比がなかなかです。


  秋葉神社の大鳥居は金色に輝いて南側には浜松、アクトタワーが見えます。また冬の晴れている時期には遠州灘を望むことが出来ます。火防の神社ですので火をおこしてお湯を沸かしてコーヒーを飲んだりすることはやや憚られますので、茶店・売店のご利用をお勧めします。


 

2011年8月16日火曜日

4週間で4kg、50日で8kg弱の減量成功!

私は山歩き、ゴルフ等と割と動き回る方なのですが、このところ体重が少しずつ増え、ついに70Kgの大台をうかがうまでになってしまいました。もちろんこれまでただ体重を増やし続けてきたわけでなく、ウォーキングを始め、ダンベル2Kgを使ったダンベル体操、腹筋等も続けていて、それなりに下肢の筋肉、大胸筋も少しついてきました。ところが腹周りだけがどうにも引っこんでくれません。これではおなかぽっこりのただのオッサンです。
一念発起!
幸い夏場で日の出が早いので早朝トレーニングを中心に、食生活を少しずつ変え自らの体を使った実証実験を6月下旬から開始することにしました。

 減量を始めて50日、ほぼ1.5月が経過し、ほぼ70kgから62kgまで約8kg弱の減量です。腹周りが約10cm以上減って、ウェスト89cmのズボンはブカブカです。私が30代半ばの時の体重まで戻しました。但し、腹周りはまだまだ「脂肪のついた皮」が残っていて、30代半ばの時のスタイルとまでは行きません。これがとれるまでにはまだまだ長い道のりが続くようです。カリッと焼けれはばうまそうですが---(笑)。


2005年の中頃からOMRON社製の体重体組成計Karada ScanHBF-354IT万歩計HJ-710Tで体重・体組成データを蓄積してきています。これらで得られたデータはオムロンの専用のアプリケーション「Bi-Link Standard」でグラフ表示が可能です。また、Excel CVS形式でファイル出力が可能ですので、独自のデータ加工、グラフ化することも可能で便利に使っています。


さて、実績のグラフです。体組成の推移グラフは横軸1マスが1週間です。オムロンの専用のアプリケーション「Bi-Link Standard」によるものです。


これからCVSデータに変換して2カ月間にデータをまとめてみました。赤い線は7日間の移動平均を取り平滑化したものです。



次に、今回の減量のポイントをまとめてみました。
  1)食事: 昆布、わかめを中心とした酢の物、野菜サラダ、雑穀米のおかゆ、
        野菜の煮物、こんにゃくの煮物、野菜ジュース。
        プロテイン(途中から参戦)
            とにかくご飯をバクバク食べるのは厳禁。炭水化物を極力止めてみました。

    2)運動: スロージョギング 56Kmを約1時間
        これは、先に紹介した浜北総合体育館の周回コース4回まわります。
        更に、室内になりますが、ダンベル2kg x  2個でウェイトトレーニング
        +腹筋+腕立+懸垂等
  3)ゴルフ: 早朝ゴルフで100球程度の打ち込み。
         但し、これは減量との相関はあまりなさそうですが、2)の手始め
         としての意味はありそう。
 
ただ、あまり極端に続けると持続力と気力が無くなっています。明日は山だ!ゴルフだ!という時にはちゃんと食べるようにしてます。2日程まえから準備しないと一日前の炭水化物の摂取では間に合わないように感じます。
腹減ったぁ~っ!

2011年7月30日土曜日

竜ヶ石山(359.1m)竜ヶ岩洞~奥山

2011729日(金)奥山半僧坊までの尾根歩き

前回78日に只木~富幕山~尉ケ峰の計画を途中で断念して奥山に降りて以来、暑い中のトレッキングをやや躊躇していたのですが、F氏からの誘いで「軽め」の尾根歩きをトライしてきました。数日前に雨が降ったこともあり、竜ヶ石山への林道アプローチはさほど暑くなく時より涼風を感じつつ、気分良く歩くことが出来ました。今回はトレーニングの意味もあったので、水を3リットル(真水1、お茶1、かなり薄めた赤シソジュース1リットル)これだけですでに3Kgです。Tシャツの軽装の肩には一寸重かったかもしれません。これでいつものように自宅から歩き始めました。

竜ヶ石山の山頂からの眺めもなかなか素晴らしいもので、西には浜名湖、東には浜松市街、アクトタワーがはっきり見えます。ちょっとパノラマ写真をやってみましたがどうでしょうね?

この竜ヶ石山は標高が359.1mなのですが、サンゴクイチ(三国一)と語呂合わせで平和を願う鐘が有志の手で設置されています。また、ここはハングライダー場になっていて、そのため風見の鉄塔なども設置されてますが、これはちょっと無粋かな。


以前にも紹介しましたが、竜ヶ石山から奥山に抜ける尾根道はあまり通る人もなく時に今時は夏草が生えてなかなか歩くのに苦労します。更に「クモの巣」との戦いで、時々先頭を入れ替わりながら木の枝を振り回し「クモの巣」を払いながらの「藪こぎ」ルートです。色んな人が、赤テープ・リボンを目印に付けてくれてありますが、これも所々なので道を失いがちになります。私たちはこれで3度目だと思うのですが、それでも一人歩きはやめた方が良いと思います。それと、夏草はとげがあるものも結構あるので、それらを刈る簡単な「山刀」のようなものも必要です。小さなナイフでは一寸無理です。
背山(うしろやま)峠付近もこんな感じで夏草に覆われています。これを数十メートル進めば背山集落の奥山往還道に出るのですが、今回はここの藪こぎはやめることにします。



  この背山峠を過ぎてしばらく尾根道を進んだあたりに253.4mの三等三角点があります。ただ最近の測量システムの変化に伴い扱われ方も寂しくこんな状態です。



以下の写真は最後の尾根を降りて、尾沢集落への最後の出口付近ですが、この通りの夏草です。ここを過ぎで奥山方広寺の門前を過ぎて、ようなくキジ亭で一息つけました。


07:20 自宅出発
08:41 霊園前バス停 (ここまで徒歩1時間20分)
08:53 乗車
09:15 竜ヶ岩洞入口下車
10:14 竜ヶ石山山頂
10:23 下山開始
11:00 背山峠
12:11 キジ亭到着
14:02 奥山バス停発
14:32 霊園前下車
16:28 自宅到着(ここまで徒歩1時間56分)


尾根を歩いている様子は、カシミール地図の25,000分の1の地図の方が分りやすいかもしれませんね。




帰りは三方原霊園前のバス停で下車し、いつものように徒歩で帰路につきましたが、結構疲労を感じました。途中でミニストップに寄りソフトクリームを食べたり、木陰で一寸休んだり、道を間違えたり‐‐‐‐これは別かぁ、いつもは1時間少々で帰宅するのに、2時間近くかかってしまいました。やはり減量のせいでやや体力が落ちているようです。約1時間、ほぼ5~6Km程のスロージョギングを連日こなしているのですが、食事制限(笑)が効いているのか?竜ヶ石山程度で喘いでいるようでは何のためのトレーニングなのかと反省です。